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吉田就彦のヒット学

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2月1日に、第1回戯塾「スティーブ・ジョブズを考える」を開催した。

この戯塾は、私が私塾として開いており、これからの日本を、明るく、楽しく、元気にするために、塾生のみんなと、様々なテーマを一緒に考えていこうというもの。

第1回目のテーマは「スティ-ブ・ジョブズ」ということで、関心が高く、40名以上の人間が集まった。

デジハリ大学院や大学の私の教え子も多数来てくれたが、一般の人も多く、この塾をやる意味も出てくる感じだった。

ジョブズは、有名な「現実歪曲フィールド」の主。彼の伝記から拾った様々な彼にまつわる言葉をホワイトボードに書き、それらを解説していった。

そして、最終的には、ジョブズは、ムダ、ムチャ、ムリの3Mのプロデューサーとして、世にイノベーションを起こした人間とし、さらには、第3のルネッサンス(デジタルからの人間解放)の扉を開く人間だったと結んだ。

これが私が考えるジョブズの生きた意味だが、この塾では結論つけもMUSTにしないようにし、さまざまな観点からみんなが議論できるといいと思っている。

参加の熟生たちからも様々な意見や感想が聞かれた。

今後、毎月第1水曜日の18時~20時という時間で、水道橋のネコワーキングにて行う。

次回第2回3月7日のテーマは、当然、「東日本大震災を考える」。
また、熱い議論になると思う。

塾の模様は以下アーカイブにて。

http://www.youtube.com/watch?v=_fUnLxGipGs

昨日の東京の大雪で、本日は一面の銀世界。

特に東京の田舎の我が家では周りの木々に雪の塊がのっかって、まるで雪の花が咲いたようだ。時々日の光に溶けたその雪が落ちて、それすらもまるで、花が散るように感じる。もっともその落ち方は素早く、しかも少々びっくりもする。

そんな大雪の景色の中、朝から先日のライブにいった木暮シャケ武彦君のCDを大きめの音で聴いた。もう最高である。

ギターの音が陽光のきらめきの中で拡散する。素晴らしいマッチングだ。名手にかかるとあんな小さな楽器が大きく聴こえ、陽光にきらめく雪景色にシャケの音楽は素晴らしい調和となる。

まさに、このCDのタイトルのように「水と光の魔法」だ。

http://www.psychodelicious.com/

雪により、これまでの乾燥していた台地は潤い、空気は清み、湿気がいっぱいのすがすがしさを感じる景色。水の豊かさ、素晴らしさを実感する。

大雪一過のあと、十分に晴れた冬の陽光のありがたさ、温かさ。その光が反射されて、まさにキラキラと輝く銀世界。

ライブの時に買ったクリスタルガラスにも陽光が直射して、部屋の中や空間にきれいな宝石を発散する。

まさに「水と光の魔法」だ。

こんな国分寺の1日を想像してシャケが作った音楽ではないだろうが、半分都会のこの町にもしっかりこの音楽は心地よさを演出してくれる。音楽の力は偉大だ。

シャケと共通の音楽業界の友人が、シャケの事を称して「彼は哲学者」と言っていた。もちろん言葉をうまく操る哲学者ではなく、音楽が哲学を語るという事でだが。本質を焦点化する彼の音楽を象徴している。

そんな心地よい冬の1日のスタートを十分に楽しんだ朝だった。

木暮シャケ武彦君のライブを、吉祥寺のスターパインズカフェで観た。

このライブハウスは有名人のライブも多く、実は私のバンド「THE LOOSE & BEAT」でもお世話になったことがある老舗の吉祥寺のライブハウスだ。

私と木暮武彦、シャケ君とはもうかなり長い。私のポニーキャニオン時代で、おそらくもう20年近く前に、バリバリの元レッドウォーリヤーズの、ロックンローラーとしてのシャケ君と仕事をしたことがきっかけだった。

どうやらその当時、私がインパクトを受けた映画「ガイヤ・シンファニー地球交響曲」の第1番を観た直後に彼と話したらしく、その時に彼に薦めて、当時の六本木WAVEの映画館でやっていたガイヤをリアルタイムで、最終日に彼が観たということを先日彼に会った時に聞き、懐かしくもびっくりした。

昨年、私が「木暮人倶楽部」を始めた時に真っ先に頭に思い描いたのはシャケ君の事で、久しぶりにコンタクトをとったのだ。その再会の縁で最近彼が出したCD「水と光の魔法」(Clear sky)の発売記念ライブツアーの最終日に行ってみたわけだ。

先行して行われた関西ツアーでは、私の友人で、くいだおれ太郎のマネージメントをしている音楽評論家K氏から、ライブ後の長文の興奮したメールをもらっていて期待が膨らんでのライブだった。

ともかく素晴らしかった。サポートのキーボードの三国さんとのアンサンブルに多少のロック過ぎるノリを感じることもあったが、そこは、まさに今のシャケの音楽空間だった。

富士山裾野に住み、森を感じ、樹海にインスパイヤーされ、作り出されたシャケの音楽。彼曰く、この音楽を都会の人にこそ聞いてほしいとメッセージした。

私はともかくいい音のシャケのアコースティックギターの音にしびれたが、その素晴らしい音に聞き入っているうちにこのシャケの音楽についてある考えがよぎった。

それは、音楽と言葉という概念の統合問題だ。

シャケの今のアコースティックなニューエイジ系の音楽には、言葉を超えた不思議な広がりがあるのだ。

その楽曲のタイトルは、「青葉の歌」「海」「あやふや」「ひまわり」「蜂と少年」、、、、

先日このブログで書いた日本画家「松井冬子」のことは、日本画にもかかわらず作品に哲学的なタイトルを付加した事がユニークと書いたが、シャケが書いた曲のタイトルは、まるで表意文字的ではない感覚のイマジネーション世界のタイトルだ。

しかも、昨今のシャケの音楽は、言葉のない歌のないインストの楽曲なのだから、言葉に直接的に影響を受けない。その音楽は、タイトルという言葉をあしらうかのように、音として音楽として自由に聴こえた。まるで、昔のクラッシック音楽のようだ。JUST音楽。

シャケは、おそらく音楽という抽象的な概念をクリエイトしたのだ。そこには音や音楽という非常に抽象的な芸術の極みがあり、タイトルというある意味規定的な言語を、曖昧なまま受け入れるスタンスとしての音の確かさがあった。

私とシャケを知るある友人が言っていたが、シャケはやはり哲学者であり、音楽的芸術家なのだ。単なるロックンローラーとはまったく一線を画している。しかも、ロックンローラーとしても超一流だった。

そんな彼と、偶然にも木暮つながりになる「木暮人倶楽部」を私がやることになり、必然的な再会を果たした。シャケの音楽が放つメッセージと私が木暮人倶楽部で放つメッセージは大きく重なる不思議さでの再会でもある。

そんな再会を喜びつつ、これから我々がコラボしていくことが、大きく世の中に影響を与えるのではないかとの期待もしてしまうライブだった。

木暮シャケ武彦は、未来をメッセージする芸術家、音楽家だ。そして、私がこれから展開していく「木暮人倶楽部」は、まさに未来の日本を、世界をイメージして活動を行うことにその意義があると思っている。


松井冬子という日本画家がいる。

先日のNHK紅白歌合戦で審査員になったほど、知名度と人気が高い女性日本画家だ。

その美貌と作品世界の独自性により、日本画というよりは、日本の現代美術界に革命的な存在となっている。

その大規模な個展を横浜美術館に観に行ってきた。

彼女が描くモチーフは、「幽霊」「内臓」「骨」「死体」「兎口」。日本画独特の彩度の低い深い世界とからまって、それは恐ろしく美しい。痛い。

さらに、日本画ならではの手法なのかもしれないが、ディテールにこだわり、その細密な塊が集合化されることで、すさまじいい迫力を生む。

大作を描くための習作も数多く展示されているのでそのことがよくわかるが、細部にこそ神が宿ると言ったある映画プロデューサーの言うとおり、まさに神がかりともいえる。

しかも、葉の一つ一つにも個性をというように、その習作デッサンの中に、「ひとつひとつのディテールが同じ様にならないように」と彼女の但し書きも読める。

緻密な、そして、集中力の産物として、あの巨大な作品の一部が十分に主張しているのである。

そもそも日本画は、シンプルで研ぎ澄まされた1本の線の凄味で主張する画だ。西洋画とはまったく異なる手法だ。省いて省いて、ムダなものを削って削って、残る1本の線の力がすべてである。

松井冬子も、日本画の王道を歩んでいるように思う。
その上で、2点ほど彼女独特の世界を垣間見る。

まず、その題材のグロテスクさを美に昇華させるディテールの緻密さと色。デッサン力が緻密であるがそのグロテスクはグロとはならない。

それは、やはり色の問題だろうか。写実的でありながら、現実とは異なる松井冬子の世界感の中にいる感じ。彼女の頭の中にいるのでグロにならない不思議な感じ。それは独特の日本画的な感覚なのかもしれないし、冬子独自の世界とも言える。

もう一つは、そのタイトル。

普通日本画は言葉であまり説明もしないし、主張はしない。「~~の図」であり、「花」であり、「鳥」である。

しかし、松井冬子の作品には、「世界中の子と友達になれる」「絶え間なく断片の衝突は失敗する」など、思想的、哲学的、文学的なタイトルが多くある。まるでシュールレアリズムの作家のようだ。

今までの日本画にはない哲学のメッセージとも取れる。日本画では、画は「ただそこにある」ものへの心情を映す鏡という意味合いが強く、これは日本文化全般にいえることだが、一見何もない中に何かを見る(見せる)ことが尊ばれると思われるが、彼女は異なる。

この感覚は、まさに王道ではなく邪道と言われかねない彼女の存在の新しさを示している。革命的ともいえる。

そうなのだ。

彼女は今を生きているまぎれもない日本画家であり、今を敏感に感じている芸術家なのだ。

それは「現代の病を題材にしている」という彼女のこういう言葉に表れている。
パンフレットのあいさつの最後の言葉だ。

「痛覚は、われわれの身体的共感を持ち、直観的なるものを暗示している。その感覚をアウフヘーベンし、美術として飛躍させられると私は信じている。」

賛成!

今こそ、政治、ビジネス、社会などすべての事にアウフヘーベンが求められている。

吉田私塾「戯塾」ではそんなことを話したい。

今回の東日本大震災で海外での報道と日本の国内の報道の違いが明確になった。

普段はなかなかつかめないことが多いがこの大災害の緊急時には、その違いが明確になる。

そのもっとも異なった報道の違いは、やはり原発の問題。

その危険性の指摘や、SPEEDiなどの放射線の計測データの公開など、これまでのように、政府などの公の情報を流すことが一辺倒だった日本のマスメディアと独自の取材や多角的な事実の報道という姿勢が感じられた海外での報道との違いはあまりにも異なる。

もっとも、渋谷のライブハウスが原発だなどととんでもない誤報道をしたFOXニュースもあったが、それにしても誤報道であることを修正し、常に事実を追求しようとする姿勢は感じられた。

さらには、スリーマイルの事故との違いで様々なメディアで指摘されたのが、情報の一括。政府や原子力保安院、東電、しかもその様々なレーヤーや人によるばらばらの記者会見による報道。

報道するマスメディア側も混乱してしまうのも無理はないが、やはり真実を伝えるという存在意義で言えばあまりにもオフィシャルの広報スピーカーになってはいないか。

TVに出てくる学者の皆さんは、版を押したように「大丈夫、大丈夫」と。さらには「想定外、想定外」を上塗りする。

まるで、東電や政府の検閲にあっているようなトーンだ。NHKはある意味しょうがないとしても民放も右へならえでほぼ同じ。少なくとも、慎重派、楽観派の2つの視点ぐらいは示して、新しい事象から起こる未来の予想ぐらいは言ってほしかった。常に政府と同じ後追いだった。

日本国民の過剰な国民性を鎮静化させることも重要だろうが、あまりにも一方的な大丈夫合戦にかえって不安になる。

ソーシャルメディアのある意味いい加減な過剰増幅も問題だが、そのスピード性や共有性においてマスメディアよりも、今回の大震災では初動に活躍したのも事実。

しかも、それはマスメディアを通じて報道される日本の報道ではない海外報道の存在も明らかにし、共有させた。ニュースの性格は違うが、中東で起こっていることとまったく同じ作用である。

今回の大震災。メディアとソーシャルメディアの逆転の象徴的なスタートとなる3rdインパクトの出来事になる。

吉田就彦

Authour:
株式会社ヒットコンテンツ研究所
代表取締役 吉田就彦

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